鎌倉時代の、奥州につながる幹線道路鎌倉街道中道が日光御成道の前身。家康は会津の上杉を攻めようとこの道を北上していた時に光成の挙兵を知り、引き返して関ヶ原の戦いで勝利。そうした縁起の良さから、家康死後に道は整備され、御成道とよんだ。

御成道は、江戸時代の本郷追分で中山道から分かれ、日光街道に合流するまでの約50㎞。川口宿の先に当たる鳩ヶ谷宿は、江戸からはおよそ4里(19㎞)の道程になる。御成道には一里ごとに塚が築かれたことから、距離からいうと現在の吹上橋の袂付近がその位置になり、現在は塚をしのぶ杭が建つ。

鳩ヶ谷宿は、見沼代用水と周辺の商業・文化の中心として栄えた。江戸時代の中頃始まった毎月3と8が付く日に開かれた「三八市」は、年を追うごとに賑わいを見せたという。特に明治に入ると、当時盛んだった綿織物の流通の拠点となり、商業の町鳩ヶ谷として最盛期を迎える。

また、鳩ヶ谷と地続きの赤山は、伊奈忠治が陣屋を築いて支配の拠点とした土地で、伊奈氏は新田開発も力を入れていき、江戸の穀蔵とも呼ばれた需要な地。御成道は、鳩ヶ谷宿や赤山の台地の上を走る重要な街道だった。

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