昭和13年、放送機技術を極める一人の青年が赤井にやってきた。赤井とは、現在の川口市赤井3丁目。関東一円に電波を送っていた新郷放送所があった場所だ。前年、新郷放送所は10㌔㍗の大電力放送所の使命を終え、「新郷工作所」と名を改め放送機製造所となっていた。着任した青年は、いったん役目を終えた新郷放送所の建物を放送機工作所として蘇らせた。

新郷受信所の絵葉書(NHK関連資料より)

技術局工務部設計分室として再スタートした新郷工作所で、青年の最初の仕事が放送技術要員の確保だった。採用は地元高等小学校卒業生を中心に進め、第1・2期生が各4人、第3期生が3人決まった。青年は、採用した彼らに電気の勉強を勧め、それに応えた11人の若者達は都内の電気学校夜間部に入学し、勉強との両立に耐えながら仕事に励んだ。以下の記録が残る。

「…私は、高等小学校卒業を前にして、上青木小学校講堂で、川口市のグライダー飛行大会に備えて、他の同級生と共に翼の長さが1㍍弱のグライダー製作をしていた。突然講堂の入り口の扉を開け、校長先生が大声で呼んだ。放送局で人を募集している、行くようにと。父の了解を得た後、面接試験などで、私の一生を決めた職場が決定した。工作所は、試験室、組立室、工作室、物品室、庶務室に分かれており、私の最初の仕事は工作室であった。工作室では放送機のフレーム、コイル等の機械部品作りが主で、大理石の分電盤等も改修した。最初、10㍉厚、5㌢角のベーク板をバイスに挟み、ヤスリで真四角に仕上げるヤスリかけの姿勢など基本を教えてもらった。古い大理石盤の不要な孔をベークライトの丸棒で埋め、黒い塗装で仕上げるという仕事もあった。冬の寒い日、屋外で下地を塗り、水をかけながらサンドペーパーで平らに仕上げ、黒い塗装用ペイントをコンプレッサーで吹き付け、さらにサンドペーパーで磨き、この塗装を3回繰り返す、寒くきつい仕事であった。旋盤、ボール盤等、回転機器を使うときは軍手など一切使うことは禁止されていた。回転するものに挟まれけがをすることを防ぐためであった…」。

こうして、新規採用者たちは基礎から工作技術を学び、放送機製作の中核となっていった。

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