最近のラジオ放送は、番組毎に、電力の供給先や送信所が明らかにされる。では、放送が始まった頃はどうであったろうか。送信所が愛宕山(東京)から我が街の新郷地域に移されたのは昭和初期。「放送は北足立郡新郷送信所より送信しています」と、今と同じ放送はされただろうか。

深く眠る電波遺産

その新郷放送所だが、わずか10年で送信所としての役目は終わった。同じ市内の青木地区と鳩ヶ谷地区に150キロワットという凄まじい出力の送信所が作られたからである。

移転後の新郷送信所跡地はというと、放送機工作所として新たなスタートを始めた。ここに、日本はもとより海外でも磨いた高い放送機技術を持つ青年が派遣されて来た。彼は技術ばかりか後輩を育てることにも長けており、特に若者たちがより高い知識や技術を身に着けるよう徹底して教え、遊びも付き合った。さらに、学校と仕事の両立を進め、優秀なる人間が次々育っていったという。

新郷工作所は、当初は各地の放送機の改造を主な仕事にし、よりきれいな電波を出すことを使命としていた。だが、戦争が激しくなると、戦地に向けての放送や、さらには降伏を進めるアメリカの宣伝放送に対抗する雑音を出すという要請にも応えなくてはならなかった。

雑音放送といえども、電波を出すとなるとその発信元は危険にさらされる。B29は、アンテナから出るそうした電波を探し出し、送信元の放送所を簡単に見つけてしまう。放送を守るのは国民を守ることだという使命感から、新郷工作所は地下に放送所を作ることになった。

地下の放送所は、5メートル掘り下げた場所に厚いコンクリートで覆われた建物を作り、その中に放送機を運び込んだ。コンクリートに囲まれた地下にならば、雑音を出し続けていても、容赦なく爆撃を仕掛けてくるB29からは守りきることができると。工事は急ピッチで進められ、秘密の地下放送所が完成した。だが、ほどなく終戦を迎えたために地下放送所は機能することはなく、やがて人々の記憶からも消え去った。

今から20年ほど前の夏の暑い日、高い鉄条網で囲まれた現在の文化放送川口送信所敷地内で発掘調査が行われた。地下に作った秘密の放送所の発掘調査だ。草で覆われた地面を、当時90歳過ぎの放送機の中心人物が立ち合い、彼の記憶をたどりながら掘り返した。

出てきたのは、厚さ約30センチのコンクリートの建物。物資がほとんどないあの戦時下で、あれだけ頑丈な建物がつくられた訳を、調査に立ち会った全員が思い知ることになる。放送を守ることがいかに重要なことだったかを….。

(Visited 18 times, 1 visits today)
0