川口市の北側に広がる見沼たんぼは、今や貴重な自然が残る癒しの場所だ。

武蔵野線からの見沼の風景

 古代、海面は現在よりも高く、現在の見沼田んぼのある地域は東京湾とつながる入り江であって、旧浦和市域の三分の二が海底にあった。その後、海は後退して入り江が東京湾と分離し、無数の沼や湿地が生まれ、見沼もその一つとして誕生する。

 江戸時代の寛永6年、その見沼の南端の両岸の距離がもっとも狭くなっている場所に堤を築き、見沼への流入水を堰き止めた。堤の長さはおよそ870メートル、当時の8町に当たり「八丁堤」と呼ばれた。水深は1メートル、周囲40キロに及ぶ見沼溜井が完成した。つまり貯水池が誕生したのだ。

 それから230年後、見沼溜井の堤は切られて干拓され、広大な実りの大地・見沼田んぼが生まれ、江戸の米倉とよばれる貴重な食糧生産の場となった。時は流れ、米倉と呼ばれる地は、再び貯水池にしようとする計画が持ち上がった。昭和初期のことだ。

 歴史は繰り返されるというが、東京市は八丁堤の時と同じ川口、浦和、大宮にかけての見沼一帯を再び貯水池に変えるというダム建設を計画したのだ。

 東京市は見沼周辺の現地測量を始めた。

 この計画に反対運動が起こった。運動は、神根村が最初に立ち上がり、反対の輪は一気に11市町村に及んだという。各地で反対の集会が開かれる中、先に貯水池となった入間郡山口・村山両貯水池を視察したり、関連する資料を集めるなどし、まずは埼玉県庁や当時の内務省、東京水道局へ陳情した。当時の新聞に、「東京の大貯水池に地元民必死の反対」「埼玉県下に中善寺湖三倍の大湖水、日夜関係農民の焦躁」など見出しが躍る。記事には、「東京市民の飯用に供すべき、将来の上水道水源地として、埼玉県大宮市、浦和市の東方の見沼を中心とし長さ四里、幅一里の一大湖水を計画したところ、その地域内にある二千五百町歩の関係村民は、父祖伝来の土地に対する執着と、一家離散の憂き目をおそれ、東京市の測量隊が入り込むやデモを行い、或いは毎夜毎夜炊き出しをなして協議し、また陳情団を組織して、埼玉県庁や東京市役所に詰め掛けるなど大東京の命の糧たる大貯水池をかこんで、昨今緊張しきった農村風景を見せている」ともある。東京市は当時の価格で、五萬円を調査費に計上していた。

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